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競争社会の課題と希望――ジョージ・ソロス『グローバル資本主義の危機』

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画像引用:WSJ日本版 - jp.WSJ.com 

 ジョージ・ソロス。金融取引の世界では知らぬ者のない成功者、伝説的なトレーダーである。彼の運営するファンドの扱う金額があまりに巨大であるために、ソロス氏の売り・買いの行動じたいが相場予測の材料となるほどで、「イングランド銀行を潰した男」の悪名を持つなど、各国の政府が警戒する存在でもあった(現在は引退している)。ウィキペディアによれば、2011年時点でのソロス氏の個人資産は220億ドルにも及ぶ。

 

 「金融の魔術師」と呼ばれるジョージ・ソロスは市場における圧倒的勝者であり、いわば現代資本主義の申し子ともいうべき人物である。その彼が当の資本主義というシステムを批判している、と聞いたら、ちょっと意外なかんじがしないだろうか?

 

グローバル資本主義の危機―「開かれた社会」を求めて

グローバル資本主義の危機―「開かれた社会」を求めて

 

 

「開かれた社会」とふたつの敵

 本書の副題にもある「開かれた社会」(Open Society)は、科学哲学者カール・ポパーが提唱した概念である。ポパーは著書『開かれた社会とその敵』において、全体主義体制を批判し、〈究極の真理〉だとか〈完全な社会〉といったものにいずれは到達可能であるという態度、「歴史の必然」とかいったような信念は幻想であり、そのような態度をとるべきでないと指摘した。彼がそのように考えた理由とその正しさについては、ぼくたちの時代から歴史を振り返れば明らかであるように思われる。まさに先のような主張によって社会の実権を握ったのが、ナチス・ドイツをはじめとする全体主義政権であり、「共産主義」という理想の帰結として打ち立てられたソビエト連邦の政治体制だったのだから。

 

 われわれが生きる社会は不完全な社会である、ということを認めなければならない。個々の前進は、原理上つねに次善の策に留まるが、それで満足しなければならない。ただしそのことは必ずしも嘆くべきことでもない。逆にいえば、「限りなく改善していくことはできる社会」でもあるのだから。──それがポパーの主張であった。

 

 ところで、カール・ポパーの「開かれた社会」という理想の社会像は、その敵である全体主義政権の否定の姿として描写されたものであるため、やや抽象的な理念に留まるきらいがある。それだけに、新しく提出されたその理想の悪用にぼくたちは警戒しなければならないだろう。ソロス氏は言っている。

 

開かれた社会は全体主義イデオロギーにもとづく閉ざされた社会と対照的な存在であったが、最近の経験はこれが正反対の方向からも同様の脅威にさらされうることを教えてくれた。すなわち、社会的結束の欠如と政府の不在による脅威である。*1

 

 電話やインターネットのような通信手段が発達し、だれもが発信者になれる現代社会において、情報統制はおそらく難しい。その意味において、かつてと同じ形式、閉鎖的な状況での「全体主義」が実現する危険性はたしかに減少した。では、情報や人・モノの流れが確保されてさえいればよいのだろうか?

 そうではない。われわれはそれとは「正反対の方向から」の脅威にたいしても警戒せねばならない。ソロス氏が警戒を促す新しい敵──「市場原理主義」(market fundamentalism)がそれである。 

 

市場原理主義の災厄

 市場原理主義は、その名のとおり、あらゆる領域に市場的な価値判断(市場原理)をもちこむ/適用すべきだと考える立場のことを指す。たとえば「国家運営を経営的に考えるべきだ」といった主張が(とりわけ経営の専門家の口から)しばしば聞かれるが、この類の信念はいま非常に人気がある。しかし、国家と企業とはほんとうに同一視(すなわち、利益の最大化を国家の目的とすること)が可能なのだろうか? 

 

 またこのことは、政治不信の問題にも深く関係している。市場原理の侵入によって実現されるのは、あらゆる領域にマーケティングの視点が持ち込まれた世界でもある。政治家は己の信念や道徳心を主張するよりも、より多数の支持を受けることを目的に据えるという「賢い選択」をもとに戦略を考えるようになっていく。「そもそも当選しなければ、たとえ高尚な信念を持っていたところで何にもならないのだから」、と。

 一般にポピュリズムと呼ばれるこうした現象では、政治家である彼らの政策を人びとが支持したというよりもむしろ、人びとが支持するであろう政策に政治家の側が乗った、という構図を見出すことができる。そしてそのことが、政治不信の直接の原因になっている。「政治への幻滅が市場原理主義を育み、市場原理主義の台頭がこんどは政治の失敗を導くという過程をたどってきた」*2

 

 こうした構図を前にして、いったい悪いのは軽薄な政治家と、それを容認した市民のどちらなのか、といった議論はほとんど無意味である。根本的な問題は、そうした各人(プレイヤー)の判断が最適戦略となってしまう社会全体の構造(ルール)の側にあると考えねばならず、構造問題の解消に手をつけるしかない。

 

 いくつか例をあげてみたが、より一般化していえば、倫理規範の底抜けが大きな問題になっているということだろう。「市場の価値観が職業的価値観をはなはだしく侵食」し、その結果として「専門職というよりビジネスに近くなってきている」*3という事態。だれもがみな、自分の振る舞いを決定するさいには、「ビジネス」的になってしまうことをやむを得ないと弁解し、他方では他者の「軽薄さ」に不快感を示す社会…。

 

人々の尊敬を得るのは正直でも美徳でもなく成功であるとき、なぜ人は正直である必要があろうか。社会的価値や道徳的規律が疑いをもたれているのに、マネーの価値についてはなんの疑いもない。それはマネーが本来の価値の役割を不正に使用している状況である。*4 

 

 ぼくたちは経済合理性の観点でものごとを眺めることに、あまりにも慣れ親しんでいる。しかしその視点を持ち込むことが根本的に不適切な領域(もっといえば不幸せを招く領域)はきっとたくさんあるはずだ。私的な領域において、「結婚の理想は互いの役割を果たしあうこと、よきチームであること」といった発想が生じたりすることもまた、根を同じくする問題といってよいかもしれない。そのことにたいする危機意識を広く共有していくことがいま重要なのではないだろうか。

  

グローバル社会の不在

 ソロス氏の問題意識の中心にあるのは、グローバルな社会をいかに実現するかという点にある。資本主義というのは、その本質からしてグローバル・脱国家的な運動である。資本は自身の自己増殖にのみ関心をもつ。資本は自分自身をより増殖させてくれる条件のもとへと絶えず流れていく。その次元においては、国境は存在しない。金融の世界はその原理がもっとも先鋭化した領域といえるだろう。 

 しかし現実に生きるぼくたちは、具体的な肉体をもち、特定の場所に住む、物理的に制約される存在である。政治、経済面の生活基盤も、基本的にはいまなお国民国家(ネーション・ステート)という単位だ。そのときに、「国境なんか関係ない」と言ってしまえる次元というのは、本来ごく限られている*5

 

 またそのことに加えて、現状では国際レベルでの「法の支配」が実現できていないために、特定の国家のルール違反、モラルハザード等を防止できないという課題がある。ソロス氏の念頭にあるのは、金融の世界におけるIMFの能力不足であり、そこでとくに問題になってくるのはアメリカの存在である。アメリカはまさに市場原理を推進することによって自国に利益をもたらしているために、自身の利益を損なう決定(規制)を自ら選択することは当然難しい。そこを解決する枠組みの必要性を主張しているのである。*6*7

 

 政治哲学者の萱野稔人『国家とはなにか』のなかで鮮やかに示したように、各国家が自身の繁栄のために資本主義というシステムを利用するといった牧歌的な時代はすでに終わりを告げている。いまやその力関係はまったく逆転しており、資本主義という巨大なシステムの自己増殖のゲームに、国家という装置が都合よく利用されているのである。

 資本主義の利害に貢献できない国家は、資本の流出というかたちで簡単に見捨てられてしまう。このことは、国家の第一の関心が、空洞化した国内市場(=国民の経済生活)の保守からは次第に離れ、あくまでも資本主義というシステムを支える回路として生き残ること*8にのみ関心の比重が置かれていくことを意味する。これがいままさに進行中の事態なのだ。

 ソロス氏の訴える危機感も、この文脈において理解されねばならないと思う。

 

資本主義と民主主義の補完関係

 ここまで市場原理主義を批判してきたが、いうまでもなく、それは市場競争そのものを否定することを意味しない。かつて経済学者ハイエクが指摘したように、市場における競争と個人の自由とは密接な関係にあり、競争の全面拒否が悲惨な結末しかもたらさないことは歴史が証明している。 

 結局はバランスの問題で、「開かれた社会」は全体主義市場原理主義のあいだにあるのだ。しかもそれは、どこか特定の地点には固定されず、絶えずその位置を修正しつづける、そのようなあり方として*9。そして、いずれの両極にも到達させないための別の原理に相当するのが民主主義である。 資本主義と民主主義はたがいに補完しあう関係にある。どちらが欠けても、社会全体の幸福量を増やすことは難しいのではないか。*10

 

慈善事業と「勝つ」ことの意味

 ここまでで本書の中心的な論点はほとんど紹介できたかんじなのだけど、終盤控えめに語られるソロス氏の慈善事業に対する信念が強く印象にのこったので、あと少しだけ感想を綴っておきたいと思う。

 

 ソロス氏は金融マネーで稼いだ資産の多くを慈善事業に充てているのだが、なかでも面白いのが「クリーン・マネー・オプション」(公正選挙資金運動)という取り組みだ。 先に述べたポピュリズムの問題に関わるが、選挙活動では当然ながら莫大な資金が必要となる。政治家はその資金集めに少なからぬ関心と労力を割く状況ができてしまい、結果として、「金のために信念を売る」といった状況が生じてしまう。そこでソロス氏は、彼らに選挙活動のための資金を提供し、純粋に政策面での勝負を可能にしようという試みに取り組んでいるという。

 これは画期的で、理想的なお金の使い方だと思った。同時に、市場で勝つことの意義を、強い肯定感とともに感じた、ぼくにとってほとんどはじめての瞬間だった。

 

革命的な体制の変化が多くの場合そうであるように、変化は上から始まらなくてはならない。競争で成功を収めた人だけが競争を行う条件のもとで変化を始める立場に立つことができる。競争であまり成功しなかった者は競争から手を引くことができるが、競争から手を引いてもゲームのルールを変えることにはならない。*11

 

 ぼくには昔からずっと「負けるのはいやだ」という思いがあった。ただそれは、負けん気が強いとかいったニュアンスでは決してなく、あくまでも「搾取されたくない」という話にすぎない。「負けたくない」という思いは、ただちに「勝ちたい」「稼ぎたい」の思いへと転換するわけではない。ぼくの場合にはむしろ全く逆に、「勝ちたくない」という気分の方が同居していた。自分が勝つということは、誰かを搾取してしまうということ。「勝つ」こととと「負ける」こと、そのいずれも選びたくない、というような感覚。それはつまり、競争体制そのものへの否定的な感情、資本主義に加担することへの忌避感であった*12

 

 それはまた、「勝つ」ことの根源的な無意味さを解消できないという問題でもあり続けた。このような発想はいわゆる「負け犬」ということになりそうだが、「勝者」も「負け犬」も結局は市場的枠組みの内部における位置の話であって、〈この自分〉の存在とはなんの関係もないように思われた。

 

 そんな自分が、ベンチャー企業の創業に関わるという状況は、我ながら奇妙な倒錯のような心持ちもしてくる。だけどいま、30年余の人生のなかではじめて、「勝ちたい」と思っている。「勝ってもいいかな」と思えている。たしかにいまの社会、ぼくたちを取り巻くこの構造はクソである。でもだからこそ、ぼくはいったん、この構造の内部で勝たなければならない。この巨大な構造に疑問を感じ、一緒に変えていこうとともにチャレンジすることのできる仲間を増やすために。

 

私は、本書の主張が現在のトレンドを逆転させることに貢献することを期待している。もっとも、いろいろな点で、私はいいロール・モデルではないことを認めなくてはならない。私が広く尊敬や評価を受けるのは、私の慈善活動や哲学によってではなく、金融市場で金儲けをする能力によるものである。私が金融の魔術師としての評価を受けていなければ、はたして読者はこの本を読んでくれただろうか。*13

 

 もちろん、必ず勝てるとは限らない! かりに上手くいったとして、ジョージ・ソロスのような規模で世の中を動かせはしないだろう。でも彼はこう言っている。「解決不可能であるという事実を受け入れようとしないことが問題を必要以上に悪化させている場合」があるのだと。解決不可能であることは、取り組みが無意味になることを意味しない。そうした極端な思考法こそいますぐに決別すべきものだ。

 

本質的価値は、それ自体に価値がある。ロシアの反体制派で人権運動家のセルゲイ・コヴァリエフはかつて私に生涯を通じて、負け戦ばかりしてきたと誇らしげに語ったが、私は彼のこの言葉を決して忘れない。(…)市場の一参加者としては、私は勝利者になるべく努力し、また一市民として、またひとりの人間としては、共通の利益に奉仕するべく努力している。*14  

 

 おかしな状況や構造は告発しつづけようと思う。同時に、このゆがんだ構造からきっちり利益を得ることも考える。そして志を同じくする仲間を増やすこと。──それが世界にたいする誠実な態度なのではないかと、このごろは思うのだった。

 

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『国家とはなにか』

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*1:グローバル資本主義の危機』p.11

*2:同書p.26

*3:同書p.336

*4:同書p.154

*5:市場原理主義に支配された価値観は、そうした「言い訳」を許さないわけだが。

*6:ウィキペディアの以下のエピソードには笑った。《ソロスの主張に対して一貫して批判的態度を取っているクルーグマンは、この主張を「私がこれ以上儲ける前に、私の行動を止めてくれ!」という意味だと揶揄を込めて語っている。》

*7:最近話題の経済学者トマ・ピケティの国際的な累進課税の必要性にかんする議論も同じ問題意識を共有してるんではないかと思ってる。

*8:ただし、このことは国家の衰退を意味しないことに注意。国家にとっては、自らを支えてくれる資本の担い手さえ確保できればよいのであり、現象的には国民間の格差拡大として顕れるだろう。

*9:ここで鍵になるのが、本書の最重要キーワードである「相互作用性」。

*10:逆にいえば、このことは民主主義が無条件に素晴らしいものだといえるような代物ではないということでもある。市場競争と民主主義の両立をいかに実現するか、それが問われなければならない。その意味において、近年展開された安直な「ネオリベ」批判のキャンペーンにもまた共感できないでいる。

*11:同書p.302

*12:もちろんゼロサムの発想に囚われていたせいだとも言えるかもしれない。しかしながら、市場競争の大部分がゼロサム的発想の元で駆動している事実そのものは変わらないと思う。

*13:同書p.303

*14:同書p.304