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センスと創造性の理論――中山正和『カンの構造』

 世の中にはセンスの良い人というのがいる。でもこの「センスが良い」とはどういうことだろうか? 別の言い方をしてみると、センスが良い人というのは、「カン」のいい人ともいえそうだ。『カンの構造』ではこの「カン」とは一体何なのかということを、脳の構造、とりわけ情報処理の観点から分析している。

  

カンの構造―発想をうながすもの (中公新書 174)

カンの構造―発想をうながすもの (中公新書 174)

 

 

 脳の構造を考えるまえに、コンピューターの仕組みを考えてみるのが議論のスタートとしてよいだろう。コンピューターは「CPU」という部分で計算処理を行なうが、その際、計算して得られた値を一時的に記憶しておく仕組みが必要になる。この一時的な記録のために使われるのが「メモリ」である。メモリに保存したデータは、計算の操作で必要になればすぐに取り出せるが、メモリにどんどん記憶させて肥大化していくと処理能力の低下を招く。そこで不要になったデータは適宜削除するか、あるいは、すぐには使わないにせよ後々利用することを考えて、「ハードディスク」に消えないデータとして保存しておく。

 

 ごく単純化していうと、コンピューターはだいたいこのような形でデータ処理をしているが、人間の脳もまたおおよそ同じような仕組みで動いており、知覚されたものを記憶するためには、メモリに相当する「早い記憶」とハードディスクに相当する「持続する記憶」の2つの記憶メカニズムが作動する必要がある。ここで重要と思われるのは、後者の「持続する記憶」として脳に残される情報というのは、ぼくたちが常識的に考えているよりも遥かに膨大な量だということだ。

 

脳はすべて「覚えている」

 人は日々経験したことを記憶し、忘れていく。ぼくたちは「忘れた」という状態を、いちど記録はしたものの、脳の記憶領域から情報じたいが消失してしまった状態、とイメージしがちである。でも実際の脳の動きはそうなってはいなくて、じつは脳の記憶領域に情報そのものはずっと残っているのだという。情報は残っているのだが、その情報が他の情報から孤立してしまって計算のプロセスからアクセスできない状態——。「忘れた」とはこういう状態のことを指している*1

 

 実際、ある話題の本筋とは直接関係がない情報をたくさん記憶しているという事実は、ぼくたち自身の経験とも合致するだろう。たとえば、ある講義を聞いていて、先生が「AだからBであり、それはまたCということでもある」という説明(1)をされた場面を考えよう。ぼくたちは先生のしたその説明内容を記憶している。と同時に、その講義の最中にあった周辺の情報(2)——隣のヤツがずっとくしゃみをしていてうるさかったとか、ななめ後ろの人が途中で電話が掛かって来たので席を立ったとか——もまた記憶しており、なんならこうした後者(2)のような他愛もない、とくに覚えるつもりもなかった情報の方を印象的に覚えていたりする。

 

 この(1)のようなタイプの記憶の特徴は、Aと、Bと、Cという情報が「A→B→C」という因果関係によって、つまり論理によって繋がっているという点である。そしてこういう線的な記憶というのは、途中でそのリンクが切れやすいのだそうだ(下図ではDからEへのリンクが途切れている)。切れやすいために、こうした記憶を定着させようとするなら、情報の繋がりを反復することによって、個々の情報とともに因果関係そのものも記憶することになる。

 

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 他方で、(2)の情報というのは、個々の情報は因果のような強い関係で繋がってはいない。著者が「周辺記憶」とよぶこちらの記憶のあり方は、それぞれの情報が、時間の前後関係も含めてあいまいに、ある情報から別の情報をいわば連想するようなかたちでリンクしている(たとえば上図のa→b→c→dなど)。もちろん周辺記憶もまた個々の情報どおしのリンクは時間の経過とともに、やがて切れていく(上図の左側で孤立した丸がそれを表している)が、これらの記憶は、意志的に記憶しようとした情報よりも圧倒的に量が多いことには注目しておいてよい。

 

 図式的にいえば、個々の情報がネットワークを成しているようなイメージであり、一本の縄よりも網の方が切れにくいように、周辺記憶の網の目を張り巡らせておく方が、特定の記憶情報へのアクセス経路を失いにくくなる。――以上の分析から、こうした記憶の特性と「カン」には重要なつながりがあるのではないかと著者は考えた。

 

 ところで、コンピューターが得意なのは(1)のような論理の計算である。論理による判断はいくらでも高速に辿っていける。反面、(2)のようなあいまいさのある、非論理的なつながりの場合、コンピューター自身では判断できないし、人間から与えられていない新たなリンク条件を創造することは難しい。コンピューターのする仕事をみて、「カンがいいね」とか「センスがあるね」とは普通は言わないが、だとすれば、人間とコンピューターの最大の違いもこの(2)の能力にこそあるのだろう。——それが本書の中心にある洞察である。

 

周辺記憶と問題意識

 論理的なつながりを忘れてしまったとき、それと関連しそうなあれこれを想起したどりながら、「ああ、そうだそうだ」というかたちで思い出せたりする。ある種の記憶術では、何かを覚えるときに、記憶の場面や内容にまつわる視覚イメージや匂い、音といった情報を同時に記憶させたりするが、これも発想は近い。周辺記憶がある論理の行き詰まりを解決するヒントとなるのである。この周辺記憶のインデックスのされ方は、「似たもの」「同じもの」といった類比(アナロジー)によって情報同士が結合するようなイメージになる。

 

 さて、ここまで記憶を思い出すしかたについて述べてきたが、アイデアを思いつく場面についてもこの枠組みはほとんどそのまま適用することができる。アイデアとは、あるものと別のあるものの組み合わせであり、記憶のなかにある雑多な情報がその素材になりうるからだ。

 

 周辺記憶はたくさんストックされていることが大事だ。とはいえ、情報だけがただ大量にあるだけでは、カンがはたらくにはまだ不十分である。「どの情報にフォーカスすべきか」という基準が定まらないからだ。そこで、問題意識をもつことが、その観点における関連の高い情報がしぜんに集まってくることにつながる、と著者はいう。

 

(中略)必要とする記憶が、われわれのもつ問題意識のまわりにガウス分布をする。山の高さを増すためには、問題意識を強く持つよりほかに手はないのである。*2

 

 このとき、個々の情報ひとつひとつに意味があるのではなく、それらの集合が与える情報量にこそ意味がある。膨大な量の(非論理的な)周辺記憶をふたたび論理へとつなぐ、そうした質的な変化をもたらすもの、それが問題意識である。

 

このような、圧倒的な数のちがいというのは、質的な変化をもたらすのである。*3

 

 カンの技法

 ある問題が論理的には解けないときに、その解決の方向を、非論理的に示してくれるのが「カン」である。では、そのカンをはたらかせるためにはどうすればよいのだろうか? 著者は、まずはその問題を徹底的に論理面から追求しつづけること、さらには「何でも見てやろう」という主体的な態度を身につける必要性を説いたうえで、具体的な手法をいくつか提案している。

 

 ひとつは、情報の結合を促すために「立場を変えてみる」方法で、具体的には以下の3つのメソッドが紹介される。

  1. 人格的類比
  2. 直接的類比
  3. 象徴的類比

 

  人格的類比は、「そのものになりきってみる」という視点をもつことで、「機械はこんな気持ちがするだろう」というように情緒的な類推を行なう方法。

 直接的類比は、「自然界にそれと似たものはないか」と探る方法で、“携帯に便利な自動車用のジャッキ”を設計するといった課題であれば、たとえば「必要なときに伸びて強くなる→ペニスはどうか」といった連想例が紹介されている(笑ってしまった)。

 象徴的類比は、おとぎ話などのように、「審美的には共感できるが、論理的にはおかしなもの」を思い浮かべてみる方法である。先の例なら「インドの魔法の綱→必要な時にするする伸びる」といった具合だ。

 

 これらのメソッドはいずれも、論理的な推論を積極的に排除して、非論理的に「似ているもの」を探索することを目指しているといえるだろう。いわば比喩によるジャンプを起こそうという話であり、ある種の文学的な感性が活躍する場面になりそうだ。このことで思い出すのは、自分の経験上、身近にいる「センスのある人」たちには、くだらないギャグやダジャレを日常的に思いつき、口にせずにはいられない傾向というか共通点がある気がしていて、おそらくこのあたり、連想の感受性の問題と関わっているのではないだろうか。

 

 さて、もうひとつは「KJ法(カミキレ法)」という発想法で、ある問題にたいする観察記録やアイデアをカードに書き出して、それを一旦シャッフルしてしまい、再度似たもの同士でグルーピングをしていくという手法だ。ようするにこれは、論理的な思考によって導かれた個々のアイデアをあえてバラバラにするというやり方で、時間的(言語的)に把握された情報を、空間的把握に置き直すことを目的とする。つまり脳の周辺記憶モデルと近い状態を再現しようというやり方である。 

 

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 じつはこれに近い試みをトラベルブックでも実施したことがある。「デザイン思考」という慶応大学の奥出直人氏が提唱するメソッドなのだが、正直にいえば、発想法の威力を十分に実感できた! ・・・とはまだ言いがたい。本書で紹介されている発想法習得における独特の難しさにかんする記述は、まさしくそのときの実感を言い当てたものになっている(笑)。

 

しかし、正直なところ、〔本書で紹介される〕シネティクスの訓練は、ひじょうに気の重い仕事である。

 

まず第一に、とくに技術者は、どうしても論理過程にとらわれてしまって、「一見関連のない雑物」を追って、類比の世界に入りこむことがむずかしいこと。第二に、自分のプライドのために、自分一人で解をだそうとする傾向から脱出できないこと。第三に、「そんなことはバカバカしい。子供のようなマネはしたくない」という気持やハニカミ、テレてしまうこと、その他である。

 

したがって、部会においても、いくつかの類比を使ってみても、どうもよいヒントがえられないという場面になると、とたんにおしだまってしまう。リーダーがなれていればいいが、そうでないと、リーダー自身が不快楽反応をおこしてしまう。 

 

 本書の間接的な解説によって、やはり問題はメソッドが有効か否かという以前に、その活用にあたっての心構えの不足にあったように感じた(たとえば、「なにを解くべきか」の決定&共有が不十分だった点など)。

 

  

非論理が生みだす新しい論理=アイデア

 本書は「カン」という「論理的には説明できないが、こうだろうと分かっていること」、リクツでは十分説明できないが「正しい」という直観について論理的に説明しようと試みた本であった。この本が書かれたのは1968年と50年近くも前だから、ここまで紹介した内容のなかには、現在では修正が加えられた内容もあるかもしれないが、基本的な思考の枠組みはいまなお有効と思われる。

 

 ところで、本書と似たことを近年考え続けている人物のひとりがドワンゴ川上量生氏だろう。川上氏は、脳の情報処理の観点から「コンテンツとはなにか」ということを分析しており、問題関心としては非常に近い。川上氏は良質なコンテンツの条件について、ジブリ映画を引き合いに出しながら、「分かりそうで分からないもの」であることをその要件として指摘しており、さらにはニコニコ動画の運営自体も「何か分からないもの」「説明のつかないもの」——しかし川上氏自身には、「正しいし必要だ」と直観されているもの——を残しておく方針を徹底していると述べている。

 

 

ルールを変える思考法 (角川EPUB選書)

ルールを変える思考法 (角川EPUB選書)

 

 

 本書にせよ川上氏せよ、語られているのは要するに、「どうすれば創造的な仕事は可能になるか」ということだろう。そして「カン」は創造活動、とりわけ“生みの苦しみ”における突破口をもたらす契機となりうるものだ。

 

 著者の中山氏は言っている。重要なのは、自由な心の動き、あるいはアソビ(Play)である。カンは「ハッと気がつく」ように自発的なかたちをとって現われる。問題追跡が終わりに近づくと、問題のほうから解けてきてしまう、そんな感情が湧いてくる。そして問題が解けるまえに、すでに「これはイケるぞ」というたのしさを感じる*4、と。――こうした甘美な創造的瞬間をより多く迎えるために、カンを磨くのじゃ。必死で。

 

*1:フォトリーディング」という速読の技法は、まさにこの理屈を応用している。理屈分かってもできないけど!

*2:『カンの構造』p.65

*3:『カンの構造』p.22

*4:『カンの構造』pp.99-100