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ゴミ収集車に群がる私たち――異文化接触@台湾出張 その2

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 台湾に来て3週間が過ぎました。支社立ち上げの方は、煩雑な手続きにぐったりさせられつつも、おおむね順調に進んでいます。 現地の言葉もまだまだロクに話せず、街に出ればいまだ新鮮な驚きに満ちていて刺激の多い毎日ですが、このくらいの滞在期間ともなると観光モードはひと休み。ふつうの「生活」が始まっています。

 

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 “1斤売り”というシステムの存在は知っていても、実際に立ち寄った果物屋で量り売りのルールが分からず、予想外にたくさん買ってしまうという月並みな失敗をやらかしたり、スーパーでネギやパクチーを買って来ては満足し、台湾製のインスタント麺とともに簡単な調理をしてみたり。と、どこからどう見ても日常生活という雰囲気。

 

 さて、生活(というか家事)において重要な位置を占めるのがゴミ出しですよね。とくに生ゴミ。日本でも夏場の生ゴミの処分には気を遣うわけですが、台湾は年中夏みたいなもんです。滞在1週間目で3匹のゴキブリを殲滅し、ムシ耐性も心なしか上がっていないでもない今日この頃ですが、出来ればお目にかかりたくないのがほんとの気持ち。そこで私は「ゴミ出しそびれない」ことを深く心に誓いました。 

 

台湾のゴミ出しイベント

 日本人にとってゴミ出しといえば、毎週決まった曜日、決められた場所に可燃・不燃・資源などと分別したゴミを出し、朝〜昼にかけてゴミ収集車がそれを回収するというのが一般的。

 一方、台湾でも可燃・生ゴミ・資源(不燃ゴミや粗大ゴミはまだ捨てたことがないので知らない)と分別はありますが、印象としてはけっこう大雑把。でもいちばん日本と違うのが収集の仕方でしょう。私たちがよく知っているようなゴミ収集場に置いていくやり方はしません。たしかにこんな暑い中に放置したらいかにもやばそうだし。

 

 ではどうするのかというと、台湾では毎日決まった時間に街のなかを巡回しているゴミ収集車に向かって、ゴミ袋を握りしめた人たちの方が近づいていき、順番にゴミを車へ投げ入れる。というやり方を採ります。

  

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 こんなかんじでポイッと。徐行してるとはいえ、走行中の収集車にゴミを投げ入れるのは地味に難易度高し。生ゴミはおじさんの横に置いてある樽へ捨てる(さすがに止まってくれます)。

 

 最初聞いたときには「マジかよ。色々むずかしくね?」と思ったのですが、収集車は「乙女の祈り」(テクラ・バダジェフスカ作曲)のオルゴールを大音量で鳴らして近づいて来るので、うっかり忘れるということはありません。むしろ、たとえ仕事の途中であっても、ゴミ出しに作業の中断を迫られるほど。

 

www.youtube.com

 

 部屋のなかにいて、「あ、遠くから“ゴミの曲”が聞こえてきたな」と気づいたところで、さっとゴミをまとめて外に出る。このくらいのテンポで大丈夫なのだと、最近やっとコツも分かってきました。

 出し忘れまいと気負うあまり、「この界隈には18時頃にやってくるから」と聞いて18時すこし前に外へ出て待ち構え…なんてことをやっている人は、現地の生活に不慣れな私たち以外にはひとりもいません。巡回はそこそこ時間どおりですが、そこはあくまでそこそこ。“5分前行動”的なのはそれこそ時間の無駄です。

 

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 こちらは路地裏にて。わらわらと集まりゴミを捨てる人々の図。最近では現地のお父さんに「慌てず歩いて捨てられて、すっかり地元民だ」と褒められ、気を良くしている毎日です。

 

 いよいよ暑さも本格化の気配。熱中症気をつけます。

ドラえもんと哲学書――異文化接触@台湾出張 その1

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 トラベルブック台湾支社の立ち上げ準備で現地まで出張に来ています。台湾はいま梅雨シーズン真っ盛りで高温多湿の蒸し暑い毎日。晴れ間がのぞけば猛烈な日差しが容赦なく肌を焼く、なかなかタフな気候条件です。それでも食べ物はおいしいし、暑さに文句を垂れながら街を歩けば、不思議と元気な気持ちが湧いてきます。

 

 台湾には過去何度か旅行で来ていますが、3〜4週間の長期滞在は初めてのこと。言葉が通じなくても意外となんとかなってしまう台湾(とくに台北界隈)ではありますが、今回ばかりは多少なり中国語を身に着けたいと思い、すこしずつですが勉強を始めました。

 

travelbook.com.tw

 

 今月始めにオープンしたトラベルブック台湾版サイト「TravelBook 旅人網」は、台湾人や中国人のスタッフが中心となって運営してくれています。また社長の長田さんは上海の復旦大学の卒業生で、中国語はペラペラ。

 という風に、トラベルブック社内には中華圏の言語や文化に強い人たちが集まっていて、語学学習についても色々とアドバイスをもらえるわけですが、そんな社長に勧められた「教材」が中国語版のマンガ『ドラえもん』。日本人に馴染みのあるストーリーで基本的な話の筋は決まっており、セリフの量も多すぎず少なすぎず。それでいて飽きずに読める。というのがおすすめのポイントだとか。

 

 私は素直にも近所のコンビニ数軒を回ってみました。しかし残念ながら『ドラえもん』には出会えません。そこで台湾で有名な大型本屋「誠品書店」へ行ってみることに。すると無事、一巻だけあった『哆啦A夢』をゲットすることができました。あと、ついでのつもりで立ち寄った哲学書の棚で一冊の本に惹かれてしまい、思わずこちらも購入(トップの写真左)。もちろん全部中国語。“読めない本”を買ってしまうというのは、なんとも不思議な体験です。

 

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 もうね。この目次を見てテンション上がっちゃったわけです。「尼采」とか書かれても、中国語が分からない身には「?」なのですが、「超越善悪」「道徳系譜學」を唱えた人物らしい。ああ、ニーチェかなと。

 「純粋理性批判」の「康徳」と来れば疑いなくカントだし、「亞里斯多德」なんかはこうなると名前だけでも分かりやすい(そう、アリストテレスですね)。このあたりで、どうやらこの本は著名な哲学者を紹介した入門書らしいことも分かってきます。400ページ近い本で400元(現在1台湾元=3.3円なので約1300円)という定価の安さも魅力でした。いつかの自分はきっと読めるさ、という気概。

 

台湾にはない「再販制度

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 しかも、です。聡明な読者はお気づきかもしれませんが、この本の帯には「79折」というシールが貼ってありました。中華圏では「8折」などと書いて、「定価の8割で販売=2割引」という割引価格を表わすのですが、その発想でいくとこの本は「21%引き」で買えそうだぞ、と気づくわけですね。

結構な割引率で嬉しい! けど、なぜに?

 

motto-taiwan.com

 

 そこで調べてみると、上記ブログにその理由が解説されていました。

 

台湾の一般書の定価は、250〜350元あたりが多いです。 日本と大きく違うのは、新刊発売後の1か月は「79折」(21%オフ)になること。 発売直前から発売後約1か月は宣伝・販売の集中時期にあたり、実際の店舗とネット書店はほぼ同じ割引率で買うことができます。

 

本好きな人や好きな作家の作品を常にアンテナを立てている読者は、気になる新刊があれば、本屋で買う人が多いようです。 既刊本の多くは割引無しか10%オフくらいしかありません。 既刊と新刊が同じように店頭に平積みされるわけですから、新刊が圧倒的に買い得感を与える、ということになります。

 

 この本の発行時期を確認すると、まさに今月発売になったばかり。新刊を割引して売っているとは驚きです。また先の記事によれば、台湾では書店ごとに本の価格がちがうことは普通で、とくに大学近くのお店では学生・教員向けに3割引で販売、とかいうことも珍しくないのだとか。大学生協を除けば、全国ほぼ一律の価格で売っている日本の書籍事情とのちがいが鮮明で、とても面白いなと思った次第です。こんど台湾の大学を観光するときは本屋にも寄ってみたいと思います。

 

 さて肝心の中国語ですが、「レジ袋いりません」がスムーズに言えるようになり、成長著しい毎日を送っています。やったね!

 

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経営戦略の名著を教えてくれる本――『星野リゾートの教科書』

 星野リゾートは旅館・ホテルの運営会社である。1904年、長野県軽井沢町で創業した老舗旅館「星野温泉旅館」がその前身で、4代目社長に就任した星野佳路(よしはる)社長は、独自の経営戦略で日本を代表するリゾート運営企業へと成長させた。星野リゾートの特徴のひとつは、施設所有にこだわらない運営特化戦略だ。全国各地でリゾートの運営を引き受けながら、軽井沢や京都では高級旅館「星のや」の展開を進めている。

 

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画像引用:星野リゾート奥入瀬渓流ホテル グランドオープン | 奥入瀬エリア情報

 

 アメリカのコーネル大学ホテル経営大学院で経営学を学んだ星野氏の経営戦略は、「教科書通り」を徹底するスタイルだという。『星野リゾートの教科書』は星野リゾートケーススタディとともに、星野社長がどんな「教科書」を活用してきたのかを紹介する内容になっている。

  

星野リゾートの教科書

星野リゾートの教科書

 

 

教科書に書かれていることは正しい

 「経営に教科書なんて役に立たない」という疑問をもつ人も多いかもしれない。しかし星野氏によれば、そう感じるとしたら「理解が不十分」か「取り組みが徹底されていない」可能性が高いという。「教科書に書かれていることは正しく、実践で使える」――。星野社長がそう確信する背景にあるのは、「企業経営は、経営者個人の資質に基づく『アート』の部分と、論理に基づく『サイエンス』の部分がある」という洞察だ。

 

 経営手法を社会科学的に分析し、体系化したものこそがサイエンスに基づいた「教科書」であり、そこに書かれている定石(セオリー)を経営判断の指針とすることは理に適っている、というのが星野氏の主張である。そしてまた、ひとつの経営判断のミスが致命的なダメージにつながる小さな会社こそ、教科書通りのセオリーを活用する意義が大きいと星野社長は強調する。

 

教科書としてふさわしい本とその読み方について

 もちろん、「教科書通りにやりなさい」と言っても、経営にかんする本なら何でも良いわけではない。星野社長は教科書の選び方と、その活用方法について3つの指針を提示している。

 

1.書店に1冊しかないような古典的な本ほど役に立つ

 教科書に適した本は新しいものよりも古典的理論のなかにある、というのが星野氏の基本的な考えだ。流行の波を乗り越えて体系化された理論だからこそ、定石として使える。著者のプロフィールもチェックし、学問と実践(ex.コンサルタントなど)を行き来した研究者の本がよい。経営者の感性や成功体験にもとづくエッセイなどは教科書としては利用しづらい、ということに自然となるだろう。

 

 候補となる本を見つけたら、1章のエッセンス部分をざっと読み、「自社が抱える課題にとって役立つ教科書になりそうか」という観点、自分の悩みにたいする“フィット感”で決めるとよい。

 

2.1行ずつ理解し、分からない部分を残さず、何度でも読む

 教科書として活用するためには、読み物的な読み方ではいけない。1行ずつきちんと理解しながら読んでいく。何度も読み返すために、時には数か月間でも持ち歩き、線を引いたり、付箋を貼ったりする。思いついた点は本に直接書き込む。読書メモは、本とメモが離れてしまうのでおすすめしていない。

 

 教科書から離れるときは、本に書かれた自分のアイデアをプレゼンテーションソフトで一気にまとめていく。

 

3.理論をつまみ食いしないで、100%教科書通りにやってみる

 学んだ理論を実際の経営に適用する場合には、教科書に書かれていることをすべて忠実に実践してみる。「3つの対策が必要だ」とあれば、必ず3つすべてを実施すること。「導入しやすい部分」「都合のいい部分」だけを導入しようとする人は少なくないが、そのやり方だと、成果が出なかったときに原因が特定できないからだ。


 上記の3つのポイントは一見大変そうだが、それほど難しくないと星野氏は言う。

 

教科書通りの戦略を打っても、なかなか成果が出ないこともある。私は何度もそんな経験をしてきたが、苦しいときでも教科書通りだという自信があれば耐えられる。
うまくいかないときには戦略を微調整することを考えるが、その判断は慎重にする必要がある。「効果が出るには時間がまだ不足している」「きちんと教科書通りにしていない」という理由で成果が出ていない場合は、戦略を変える必要はない。そんなときに作戦変更することは深い霧の中に入っていくようなものだ。

(…)

微調整をするのは、すべてを教科書通りにやり切ってからである。*1

  

気になった教科書

 さて、実践事例とともに本書の中で紹介される30冊はどれも魅力的に解説されているのだが、ここでは特に気になったものをいくつか紹介してみたい。

 

『競争の戦略』 
競争の戦略

競争の戦略

 

 

 お客様視点のマーケティングが強調されていた時代に、「ライバルの動向こそが重要だ」と喝破したポーターの理論。ポーターは企業がライバルとの競争で取るべき戦略として以下の3つを挙げ、この中から戦略を選んで徹底すべきだと主張した。

 

1.「コストリーダーシップ」:コスト競争力で優位に立つ
2.「差別化」:競争相手との違いを前面に出す
3.「集中」:特定の領域に自社の経営資源を集めてライバルに勝つ

 

 ケーススタディでは、島根県松江市玉造温泉にある「華仙亭有楽」や長野県松本市浅間温泉にある「貴祥庵」の事例が紹介されている。団体客旅行から個人旅行の時代へと変化し、それに伴って団体客の減少分を個人客で賄おうと二兎を追ってしまった旅館を、星野社長はポーターの理論を適用して再生を実現した。

 

『1分間顧客サービス』 
1分間顧客サービス―熱狂的ファンをつくる3つの秘訣

1分間顧客サービス―熱狂的ファンをつくる3つの秘訣

 

 

 本書でも取り上げられている『ビジョナリー・カンパニー』が経営ビジョンの重要性について語るものなら、こちらはサービスコンセプトの重要性を強調する著作といえる。会社の向かう方向である「ビジョン」を決めるのは経営者の役割であるが、そのビジョンに基づいて個々のサービスの「コンセプト」を決めるときには、社員やスタッフを巻き込みながら明確化すべきだとする一冊。

 

 このビジョンやコンセプトというのはいまいち飲み込みにくい概念だと思うが、星野リゾートの例で考えると非常に分かりやすい。

 

経営ビジョン
 「リゾート運営の達人」になる

 

施設ごとのコンセプト
 星のや京都:「水辺の私邸」
 リゾナーレ(山梨):「大人のためのファミリーリゾート」
 青森屋(青森):「のれそれ青森」
 タラサ志摩(三重):「海エナジーをチャージする」

 

 経営ビジョンによって会社の向かう方向を示したうえで、個々のサービス施設とそこで働く関係者たちの「なりたい姿」を明確化していくというものだ。お客様の要求が自分たちの目指している製品・サービスと合致しない場合、「要求を無視すべきだ」と断言しているという点も、たいへん興味深い。

 

 著者のブランチャードは、「1分間」シリーズで有名な人物で、彼の著書は名だたる企業の「教科書」になっているらしい。本書で紹介されるもう1冊の本『1分間エンパワーメント』も非常に面白そうだ(ただし絶版のためすごい値段がついている)。

 

『イノベーターの条件』 

 

 いわずと知れたドラッカーの著作だが、ドラッカーの本はいくつも出ているので、どれから読もうかといまだ手を出せずにいるもののひとつ。そもそもドラッカーのマネジメント論は、ナチスドイツを生み出した全体主義的組織を分析し、こうした非人間的な組織の発生をいかに防ぐかという観点で書かれていたはずなので、個人的にはマネジメントの理論そのもの以上に、ドラッカーの社会に対する分析の方に興味を持っている。「はじめて読むドラッカー」シリーズの社会編ということらしいので、まずはこのへんから読んでみるのがいいかもしれない。

 

『戦略サファリ』 
戦略サファリ 第2版 -戦略マネジメント・コンプリート・ガイドブック

戦略サファリ 第2版 -戦略マネジメント・コンプリート・ガイドブック

 

 

 学問全体に共通する話だが、経営学の内部にもどうやらいろいろな立場があり、一見万能そうにみえる有名な理論にも批判が加えられていたり、ある仮定のもとでのみ適用できる理論であったりと、「これが正解」という理論は、当然ながら存在しないらしい。自分が適用しようとする理論を学びつつ、その限界を知っておくこともまた重要だろう。

 

 この本は、経営学の戦略論を10学派に分け分析した内容とのこと。本書ではわずかなコメントとともに紹介されているにすぎないが、学問的関心がある人間にはなかなか面白そうな内容である。

 

 

 以上、簡単に紹介してみたが、とりあえず読みたい本がみつかることと、「星野リゾート泊まってみてえ~~」となるのは間違いない!

*1:星野リゾートの教科書』pp.24-25

センスと創造性の理論――中山正和『カンの構造』

 世の中にはセンスの良い人というのがいる。でもこの「センスが良い」とはどういうことだろうか? 別の言い方をしてみると、センスが良い人というのは、「カン」のいい人ともいえそうだ。『カンの構造』ではこの「カン」とは一体何なのかということを、脳の構造、とりわけ情報処理の観点から分析している。

  

カンの構造―発想をうながすもの (中公新書 174)

カンの構造―発想をうながすもの (中公新書 174)

 

 

 脳の構造を考えるまえに、コンピューターの仕組みを考えてみるのが議論のスタートとしてよいだろう。コンピューターは「CPU」という部分で計算処理を行なうが、その際、計算して得られた値を一時的に記憶しておく仕組みが必要になる。この一時的な記録のために使われるのが「メモリ」である。メモリに保存したデータは、計算の操作で必要になればすぐに取り出せるが、メモリにどんどん記憶させて肥大化していくと処理能力の低下を招く。そこで不要になったデータは適宜削除するか、あるいは、すぐには使わないにせよ後々利用することを考えて、「ハードディスク」に消えないデータとして保存しておく。

 

 ごく単純化していうと、コンピューターはだいたいこのような形でデータ処理をしているが、人間の脳もまたおおよそ同じような仕組みで動いており、知覚されたものを記憶するためには、メモリに相当する「早い記憶」とハードディスクに相当する「持続する記憶」の2つの記憶メカニズムが作動する必要がある。ここで重要と思われるのは、後者の「持続する記憶」として脳に残される情報というのは、ぼくたちが常識的に考えているよりも遥かに膨大な量だということだ。

 

脳はすべて「覚えている」

 人は日々経験したことを記憶し、忘れていく。ぼくたちは「忘れた」という状態を、いちど記録はしたものの、脳の記憶領域から情報じたいが消失してしまった状態、とイメージしがちである。でも実際の脳の動きはそうなってはいなくて、じつは脳の記憶領域に情報そのものはずっと残っているのだという。情報は残っているのだが、その情報が他の情報から孤立してしまって計算のプロセスからアクセスできない状態——。「忘れた」とはこういう状態のことを指している*1

 

 実際、ある話題の本筋とは直接関係がない情報をたくさん記憶しているという事実は、ぼくたち自身の経験とも合致するだろう。たとえば、ある講義を聞いていて、先生が「AだからBであり、それはまたCということでもある」という説明(1)をされた場面を考えよう。ぼくたちは先生のしたその説明内容を記憶している。と同時に、その講義の最中にあった周辺の情報(2)——隣のヤツがずっとくしゃみをしていてうるさかったとか、ななめ後ろの人が途中で電話が掛かって来たので席を立ったとか——もまた記憶しており、なんならこうした後者(2)のような他愛もない、とくに覚えるつもりもなかった情報の方を印象的に覚えていたりする。

 

 この(1)のようなタイプの記憶の特徴は、Aと、Bと、Cという情報が「A→B→C」という因果関係によって、つまり論理によって繋がっているという点である。そしてこういう線的な記憶というのは、途中でそのリンクが切れやすいのだそうだ(下図ではDからEへのリンクが途切れている)。切れやすいために、こうした記憶を定着させようとするなら、情報の繋がりを反復することによって、個々の情報とともに因果関係そのものも記憶することになる。

 

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 他方で、(2)の情報というのは、個々の情報は因果のような強い関係で繋がってはいない。著者が「周辺記憶」とよぶこちらの記憶のあり方は、それぞれの情報が、時間の前後関係も含めてあいまいに、ある情報から別の情報をいわば連想するようなかたちでリンクしている(たとえば上図のa→b→c→dなど)。もちろん周辺記憶もまた個々の情報どおしのリンクは時間の経過とともに、やがて切れていく(上図の左側で孤立した丸がそれを表している)が、これらの記憶は、意志的に記憶しようとした情報よりも圧倒的に量が多いことには注目しておいてよい。

 

 図式的にいえば、個々の情報がネットワークを成しているようなイメージであり、一本の縄よりも網の方が切れにくいように、周辺記憶の網の目を張り巡らせておく方が、特定の記憶情報へのアクセス経路を失いにくくなる。――以上の分析から、こうした記憶の特性と「カン」には重要なつながりがあるのではないかと著者は考えた。

 

 ところで、コンピューターが得意なのは(1)のような論理の計算である。論理による判断はいくらでも高速に辿っていける。反面、(2)のようなあいまいさのある、非論理的なつながりの場合、コンピューター自身では判断できないし、人間から与えられていない新たなリンク条件を創造することは難しい。コンピューターのする仕事をみて、「カンがいいね」とか「センスがあるね」とは普通は言わないが、だとすれば、人間とコンピューターの最大の違いもこの(2)の能力にこそあるのだろう。——それが本書の中心にある洞察である。

 

周辺記憶と問題意識

 論理的なつながりを忘れてしまったとき、それと関連しそうなあれこれを想起したどりながら、「ああ、そうだそうだ」というかたちで思い出せたりする。ある種の記憶術では、何かを覚えるときに、記憶の場面や内容にまつわる視覚イメージや匂い、音といった情報を同時に記憶させたりするが、これも発想は近い。周辺記憶がある論理の行き詰まりを解決するヒントとなるのである。この周辺記憶のインデックスのされ方は、「似たもの」「同じもの」といった類比(アナロジー)によって情報同士が結合するようなイメージになる。

 

 さて、ここまで記憶を思い出すしかたについて述べてきたが、アイデアを思いつく場面についてもこの枠組みはほとんどそのまま適用することができる。アイデアとは、あるものと別のあるものの組み合わせであり、記憶のなかにある雑多な情報がその素材になりうるからだ。

 

 周辺記憶はたくさんストックされていることが大事だ。とはいえ、情報だけがただ大量にあるだけでは、カンがはたらくにはまだ不十分である。「どの情報にフォーカスすべきか」という基準が定まらないからだ。そこで、問題意識をもつことが、その観点における関連の高い情報がしぜんに集まってくることにつながる、と著者はいう。

 

(中略)必要とする記憶が、われわれのもつ問題意識のまわりにガウス分布をする。山の高さを増すためには、問題意識を強く持つよりほかに手はないのである。*2

 

 このとき、個々の情報ひとつひとつに意味があるのではなく、それらの集合が与える情報量にこそ意味がある。膨大な量の(非論理的な)周辺記憶をふたたび論理へとつなぐ、そうした質的な変化をもたらすもの、それが問題意識である。

 

このような、圧倒的な数のちがいというのは、質的な変化をもたらすのである。*3

 

 カンの技法

 ある問題が論理的には解けないときに、その解決の方向を、非論理的に示してくれるのが「カン」である。では、そのカンをはたらかせるためにはどうすればよいのだろうか? 著者は、まずはその問題を徹底的に論理面から追求しつづけること、さらには「何でも見てやろう」という主体的な態度を身につける必要性を説いたうえで、具体的な手法をいくつか提案している。

 

 ひとつは、情報の結合を促すために「立場を変えてみる」方法で、具体的には以下の3つのメソッドが紹介される。

  1. 人格的類比
  2. 直接的類比
  3. 象徴的類比

 

  人格的類比は、「そのものになりきってみる」という視点をもつことで、「機械はこんな気持ちがするだろう」というように情緒的な類推を行なう方法。

 直接的類比は、「自然界にそれと似たものはないか」と探る方法で、“携帯に便利な自動車用のジャッキ”を設計するといった課題であれば、たとえば「必要なときに伸びて強くなる→ペニスはどうか」といった連想例が紹介されている(笑ってしまった)。

 象徴的類比は、おとぎ話などのように、「審美的には共感できるが、論理的にはおかしなもの」を思い浮かべてみる方法である。先の例なら「インドの魔法の綱→必要な時にするする伸びる」といった具合だ。

 

 これらのメソッドはいずれも、論理的な推論を積極的に排除して、非論理的に「似ているもの」を探索することを目指しているといえるだろう。いわば比喩によるジャンプを起こそうという話であり、ある種の文学的な感性が活躍する場面になりそうだ。このことで思い出すのは、自分の経験上、身近にいる「センスのある人」たちには、くだらないギャグやダジャレを日常的に思いつき、口にせずにはいられない傾向というか共通点がある気がしていて、おそらくこのあたり、連想の感受性の問題と関わっているのではないだろうか。

 

 さて、もうひとつは「KJ法(カミキレ法)」という発想法で、ある問題にたいする観察記録やアイデアをカードに書き出して、それを一旦シャッフルしてしまい、再度似たもの同士でグルーピングをしていくという手法だ。ようするにこれは、論理的な思考によって導かれた個々のアイデアをあえてバラバラにするというやり方で、時間的(言語的)に把握された情報を、空間的把握に置き直すことを目的とする。つまり脳の周辺記憶モデルと近い状態を再現しようというやり方である。 

 

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 じつはこれに近い試みをトラベルブックでも実施したことがある。「デザイン思考」という慶応大学の奥出直人氏が提唱するメソッドなのだが、正直にいえば、発想法の威力を十分に実感できた! ・・・とはまだ言いがたい。本書で紹介されている発想法習得における独特の難しさにかんする記述は、まさしくそのときの実感を言い当てたものになっている(笑)。

 

しかし、正直なところ、〔本書で紹介される〕シネティクスの訓練は、ひじょうに気の重い仕事である。

 

まず第一に、とくに技術者は、どうしても論理過程にとらわれてしまって、「一見関連のない雑物」を追って、類比の世界に入りこむことがむずかしいこと。第二に、自分のプライドのために、自分一人で解をだそうとする傾向から脱出できないこと。第三に、「そんなことはバカバカしい。子供のようなマネはしたくない」という気持やハニカミ、テレてしまうこと、その他である。

 

したがって、部会においても、いくつかの類比を使ってみても、どうもよいヒントがえられないという場面になると、とたんにおしだまってしまう。リーダーがなれていればいいが、そうでないと、リーダー自身が不快楽反応をおこしてしまう。 

 

 本書の間接的な解説によって、やはり問題はメソッドが有効か否かという以前に、その活用にあたっての心構えの不足にあったように感じた(たとえば、「なにを解くべきか」の決定&共有が不十分だった点など)。

 

  

非論理が生みだす新しい論理=アイデア

 本書は「カン」という「論理的には説明できないが、こうだろうと分かっていること」、リクツでは十分説明できないが「正しい」という直観について論理的に説明しようと試みた本であった。この本が書かれたのは1968年と50年近くも前だから、ここまで紹介した内容のなかには、現在では修正が加えられた内容もあるかもしれないが、基本的な思考の枠組みはいまなお有効と思われる。

 

 ところで、本書と似たことを近年考え続けている人物のひとりがドワンゴ川上量生氏だろう。川上氏は、脳の情報処理の観点から「コンテンツとはなにか」ということを分析しており、問題関心としては非常に近い。川上氏は良質なコンテンツの条件について、ジブリ映画を引き合いに出しながら、「分かりそうで分からないもの」であることをその要件として指摘しており、さらにはニコニコ動画の運営自体も「何か分からないもの」「説明のつかないもの」——しかし川上氏自身には、「正しいし必要だ」と直観されているもの——を残しておく方針を徹底していると述べている。

 

 

ルールを変える思考法 (角川EPUB選書)

ルールを変える思考法 (角川EPUB選書)

 

 

 本書にせよ川上氏せよ、語られているのは要するに、「どうすれば創造的な仕事は可能になるか」ということだろう。そして「カン」は創造活動、とりわけ“生みの苦しみ”における突破口をもたらす契機となりうるものだ。

 

 著者の中山氏は言っている。重要なのは、自由な心の動き、あるいはアソビ(Play)である。カンは「ハッと気がつく」ように自発的なかたちをとって現われる。問題追跡が終わりに近づくと、問題のほうから解けてきてしまう、そんな感情が湧いてくる。そして問題が解けるまえに、すでに「これはイケるぞ」というたのしさを感じる*4、と。――こうした甘美な創造的瞬間をより多く迎えるために、カンを磨くのじゃ。必死で。

 

*1:フォトリーディング」という速読の技法は、まさにこの理屈を応用している。理屈分かってもできないけど!

*2:『カンの構造』p.65

*3:『カンの構造』p.22

*4:『カンの構造』pp.99-100

マーケッターと職人のあいだで──〈中途半端〉な自分はどう生きるか

 ゆーすけべー(@yusukebe)こと和田さんの記事に刺激をうけたので書こうじゃあないか。 おお?

  • クリエイタータイプは自分がこれからつくろうとしているモノを妄想して、それを自分の価値観でつくって動くモノが出来た時に達成感を感じる。それが一番やりがいを感じる
  • 一方のタイプは商品も売ることも含めて「ありがとう」と喜んでもらえることが一番嬉しい

 顧客満足を求めるか、自分の美意識を達成したいか? - ゆーすけべー日記

 

 数年前、ゆーすけべーブログの熱心な読者だった時期がある。彼の印象は「エロにたいする異様な執念を燃やすひと」だったが、面白いサービスを次々に立ち上げる姿はインパクトがあった。Twibツイッターが流行りはじめた頃に出来たウェブサービスで、「はてなブックマークツイッター版」として当時話題になった。ぼくも好きなサービスのひとつ。形になってしまえば単純だが、“意外と盲点になっている切り口”を見つけるのが上手いなあと毎度関心させられた。

 

 和田さんはいま、トラベルブックの技術課題やサービスコンセプトを一緒になって考えてくれている。CTOの高木氏(@0su43)がつないでくれた縁なのだが、昔読んでいた何かすごいブロガーが目の前でしゃべってる状況には、いまだに不思議な感慨がある。

 

 ぼくにとって当時、同じように憧れた存在としてtwilogでおなじみのロプロスさん(@ropross)がいた。彼もまたツイッターを上手く活用したサービスを中心に、いくつもサービスを立ち上げていた。ネット越しに垣間見るおふたりは、とにかく楽しそうだった。そのうえサービスに連動させたアフィリエイトでそこそこ稼いでいそうだった(←ここ重要)。

 

 上手いことやれば、自分にもできるのではないか? と考えた。ぼくもプログラミングが好きだった。業務ではJavaばかり書いていたが、休日にPHPPythonを勉強して、ウェブサービスをいくつか作ったりした。とても楽しかった、が、まったく流行らなかった。新サービスを公開しては飽き、の繰り返し。当時は「面白いコンセプトさえ思いつけばなー」とか思っていたが、そのうち、別な理由があるのではないかと思い始めた。

 

「どちらにもなれない」 という現実

 ぼくは今でもプログラミングは好きである。ただ、その「好き」の度合いを巡って、自分が憧れるひとたちとは大きなギャップが存在した。ぼくは、彼らほど「好き」ではない。あるいは、「好き」の領域が、彼らと比較した場合に自分は極端に狭い。たとえば、プログラミング言語の領域には夢中になれても、サーバー運用の領域はそんなに楽しいと思えない、といったあれやこれや。

 もちろん、「好きでない」ことそのものが問題なのではない。ただ、同じやり方では上手くいかない、ということに気がついたのだ。別の言い方をすれば、ロールモデルの見直しを迫られた。

 

 先の和田さんの記事では、「自分の美意識を達成」することを目指すクリエイタータイプと、「顧客満足を求める」タイプの大きくふたつの傾向を挙げていた──以降では便宜上、前者を〈職人〉タイプ、後者を〈マーケッター〉タイプと呼びたいと思う。ぼくもこの区分にはひとまず共感する。けれども、この中間で揺れ動くようなタイプ、まさしくぼく自身のような──そしておそらく、世の大多数を占めるはずの──中途半端な位置にいる人間についてこそを考えたいのである。

 

 ぼくは「お金を稼ぐ」ということ、もっと広くいえば、「他者に喜ばれることは何か」という観点から思考をスタートさせることが苦手だ。もちろん、結果的に誰かに喜んでもらえたら嬉しい。けれども、それはあくまでも二次的なもので、スタート地点に選ぶという発想は希薄である。その意味で、マーケッタータイプからは距離があると昔から感じていた。ところが、もう一方では、和田さんのような職人タイプにもぼくは「なれない」*1。その現実からスタートするしかなくなったのだ。

 

〈中途半端〉を受け容れるということ

 ただ、この自己分析は現在に至る選択を重ねるうえで、とても役立った。「こだわりが強い」ということが武器にもなれば欠点にもなるように、「こだわりがない」ということもまた、武器にも欠点にもなりうる。自分にとってさほどこだわる必要のないものは、思い切って捨ててみる。そうすることで道が拓ける。そんな体験を、ここ数年のあいだに何度か味わうこともあった。なかでも一番大きかった決断のひとつが、「エンジニア職を捨ててみる」という選択ではなかろうか──その結果は今後どうなるか、まだ分からないが。

 

 ところでこのことはおそらく、たんにぼくが「個人的に考えてみました」以上の問題を含んでいる気もしている。近年、〈中途半端〉を肯定する思想が注目を集めていることも、時代の要請なのだろう。たとえば、批評家の東浩紀氏は、「村人」でも「旅人」でもなく、その中間的存在の「観光客」であれと言っている(『弱いつながり』)。むろんそれは、たんに現状に開き直ることとは違った態度である(それでは単純な欠点にしかならない)。

 

 「トラベルブック」というチームは、ひとりひとりを見ると、けっこうバランスが偏っているかもしれない(笑)。でも、チームとしては、かえってそれで上手く機能しているような気もする。油断はしないが、楽観的にいく。

 

弱いつながり 検索ワードを探す旅

弱いつながり 検索ワードを探す旅

 

 

*1:誤解してほしくないが、こう言ったからといって、たとえば「和田さんは職人気質なぶん、お金を稼ぐセンスがない」というようなことを言いたいのではない。おそらく誰もが、〈職人〉的要素と〈マーケッター〉的要素を持ち合わせている。そのうえで、各要素の強度、そしてその持ち方の比率に差異があるだけだろう。

【衝撃】ぼくたちの先祖は毎日、混浴風呂に入っていた!?――中野明『裸はいつから恥ずかしくなったか』

 タイトルは釣りです。

 

 というのこそ冗談で、今回ばかりは本気である。本書の探求は、江戸時代末期(1854年)に描かれた次の一枚の絵にたいする「違和感」からはじまる。 

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画像引用:PUBLIC BATH AT SIMODA. (下田の公衆浴場) - 日本の風俗 

 

 裸の男女が場をともにする浴場、つまり「混浴」という状況なわけだが、僕たちがふつうイメージするそれとはいささか様子が異なっている。男女ともに自身の裸体を隠すような素振りはなく、異性の裸体を追う視線の存在もまた、この絵には「欠落」しているのである。あたかも互いの裸に関心がないかのように。――そんなことがありうるのだろうか…?

 

 そうした感覚はまさに、この絵を描いた西欧の画家たちとも共通するものだった。鎖国政策が解除された異邦の地・日本に外交業務でやって来た彼らは、自分たちの文化からすれば、およそ想像できない光景を目にする。公衆浴場(当時の「湯屋 ゆうや」)では、老若男女を問わず、裸の人びとが何のためらいもなく場をともにし、湯を浴びているのだ。こうして「発見」された日本人のショッキングな風習について、当時来日していた外交官たちの報告書に多数記録されているという。

 

裸はいつから恥ずかしくなったか―日本人の羞恥心 (新潮選書)

裸はいつから恥ずかしくなったか―日本人の羞恥心 (新潮選書)

 

 

現代とは異なる裸体観

 当時の日本人の裸体にたいする態度は、西欧の人びとからは極めて奇異なものだった。それは浴場での行動に限らない。夏場などは「暑いから」という理由で、着物も身につけず裸のままで、近くにある自分の家まで湯屋から帰ったりする。それを恥ずかしいと思うこともなければ、他人のそうした行為を見て「みっともない」と感じることもない。それが当時の日本人にとってふつうの感覚だった。

 

 彼らは人前で行水をおこなうことにも、何の抵抗も示さない。ホームズ船長という人物がどこかの家のそばを通りかかったとき、行水用の桶が目に入った。そこで遭遇したのは、年ごろの少女がいままさに行水へと向かう場面である。 

 

「愛らしい少女が家から裸であらわれて、家の前約12フィート(3.6メートル)のところにある長方形の桶の風呂に行く途中、彼女とぶつかるのを避けようとして、私は立ちどまった。彼女は顔を赤らめもせずに私の横を通りぬけ、雄鹿のようなすばやさで風呂にとびこんだ」。

 

船長は裸の少女を前にして、「男が家からとびだしてきて、私が侵入してきたことをとがめるのではないか」と心配する。が、それは杞憂に終わる。「そんなことはなく、きれいな少女はくすくす笑っただけだった。保護者もみえず、その美少女が真昼の太陽のなかではしゃいで楽しむのをそのままにし、公道でみられた奇妙な光景を回想しながら、私は、女性にやさしい船乗りとして、帆を一杯に張って歩をすすめた」。*1 

 

 別の場面では、「行水していた娘がたらいから飛び出して、逃げるのではなく、外国人のそばにやって来るのである。当然、裸のままで」*2、という状況すらあったらしい。外国人に対する好奇心と、自分の裸体に対する無関心、そのアンバンスさに戸惑う彼の心境が容易に想像されるかんじがする。

 

 ほかにもこんな話が紹介されている。西欧という異国からの客人を自宅に招いた主人が、家のなかにあるさまざまなものを指さして、「これは英語でなんというのか?」と質問していた。一連のやりとりを楽しむなかで、その主人は体の部位についても順番に聞いていく。そのうち着物を脱ぎ、みずからの男根をつかみながら「これはなんというの?」と平然と聞いたという。妻や娘も同席する場であるにもかかわらず、である。

 

 本書ではこうしたエピソードが数多く紹介されている。そこから見えてくるのは、裸(とりわけ性器)を隠そうという意識がきわめて希薄な、当時の日本人の裸体観だ。彼らにとっては、裸とはあくまでも顔の延長にすぎない。現代に生きる僕たちも、顔を他人に晒しているからといって、そのこと自体に羞恥心をかんじることはない。とはいえ、ジロジロと無遠慮な視線を受ければ嫌な気分になるだろう。それに近いような感覚であったらしい。

 明治維新のヒーローとして大人気の坂本竜馬には、後に明治政府で陸軍少将や宮内大臣を歴任する田中光顕という腹心がいたが、かつて竜馬とその妻・お龍の三人で風呂に入ったという思い出を田中は語っている。三人の間には、文字どおり隠すべきものは存在しなかったのである。

 

日常品(コモディティ)化する裸体

 日本は襖(ふすま)の文化であり、西欧人からすると日本人にはプライバシーの意識がまるでないかのように見える、などと言われたりする。じっさい、明治初期頃までの日本では、寒さが厳しい時期を除けば、どの家も玄関をはじめ家じゅうの戸は開けっ放しで、風通しよく、外から中は丸見えなのがふつうだった。

 現代から見たときのその「異常さ」が受入れられていた事実も、ここまでの文脈を踏まえてみれば理解が可能になる。西欧的なプライバシーの感覚をすでに身につけたぼくたち現代日本人にとって、羞恥心をかきたてる代表的なものに自身の「裸体」が挙げられるわけだが、かつての日本人はその「裸体」自体には恥をかんじることがなかった。つまり丸見えで、何の問題もないのである。

 

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画像引用:綺麗すぎ!江戸幕末〜明治の美人女性の古写真25枚まとめ -瑠璃色Tradition- 

 

 当時の女性たちを描いた絵や写真で、着物を腰まで脱いで上半身裸のまま化粧をする姿を見たことがある人も多いだろう。開けっ放し、丸見えの家々が並ぶ町中では、こうした光景が目に入るのは日常的なことだった。そこにエロスはないのである。

 

 著者はこうした裸体の「日常品(コモディティ)」化こそが、江戸時代末期~明治初期までの日本における、性の管理を特徴づける現象ではないかと主張する。養老孟司が提唱した「唯脳論」によれば、脳は自身が生き延びるために肉体を含めた自然を管理するのだが、とりわけ重要になるのが暴力と性の管理である。これらふたつの要素は扱い方をまちがうと、容易に脳にとっての脅威になりうる。

 そこで脳は、性の危険性を縮減し飼いならすために、大きくふたつの方法を採用することになる。ひとつは性を徹底的に隠すことによって、もうひとつは性をオープンにして日常品化することによって。いうまでもなく、前者が西欧社会が選んだ方法で、後者がかつての日本社会がとった方法だ。すぐにわかるように、日常品化・コモディティ化されたものはありがたみを失う。裸体は普段隠されているからこそ価値を持つのだ。こうして裸体は顔の延長物とみなされ、「安全」なものとして扱うことが可能になる。 

 

裸体と羞恥心、性愛の関係 

  でもそうなると気になるのは、日本人の性生活と裸体の関係性だ。だいいち日本は春画文化が盛んな国でもあったはずで、ここまでのいわば「淡泊」な裸体観との整合性は一体どうなっているのか?

 

 「羞恥心をもつということは、裸体とセックスを強力に結び付けることに他ならない」*3と著者が分析するとおり、羞恥心が生じないということは、「裸体=セックス」を結び付ける回路が薄弱であるということだ。裸体はコモディティ化されてしまっているのだから、それは当然である。

 しかしながら、当時の日本人は裸体に対してまったく性的な魅力を見いだしていなかったわけではもちろんない。美術史家の宮下規久朗が言うように、「裸体は衣に覆われた部分との緊張関係におかれることによってはじめて性的な魅力を生み出す」。すなわち、「性愛は、裸体になるかどうかではなく、場面や状況によって生ずるものであった」*4

 

 ようするに欲情のスイッチは特定の行為に結び付いているのであって、「裸体」それだけでは性愛の条件が揃っていないということだ*5春画において異様に性器が強調され、また全裸の男女がきわめて少ないという事実*6も、この仮説を後押ししているように思われる。

 

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 また春画には、子どもが登場する作品がじつは少なくない。この写真は群馬県珍宝館で撮ってきたもので、初めて見たときには「こんなのアリ!?」と衝撃を受けたのだけど、それは現代の目線でこの絵を見るからこその「ありえなさ」にすぎなかった、ということが本書を読んでよく分かった。性愛をオープンに管理する以上、性愛に不可欠な裸体もオープンにならざるを得ず、当然、子どもたちが性愛の場にアクセスすることも比較的容易だったわけだ。そしてそれは、性虐待やトラウマといった文脈に必ずしも直結しない、ということでもあるだろう。

 

ラブホテル進化論 (文春新書)

ラブホテル進化論 (文春新書)

 

 

 『ラブホテル進化論』はラブホ文化を社会学的に分析した著作で、寝室という夫婦だけのプライベートな空間がない、といった日本の住宅事情がラブホテルの登場と発展に大きく寄与していることが指摘されていた。ただこの本だけでは分からなかったのは、そもそもなぜ日本の住宅にはプライベートな空間が用意されてこなかったのか、ということだった。「必要がなかった」というシンプルなだけに想像しがたい理由がその答えになるわけだが、価値観の変遷を追うことで初めて見えてくるものがあるのだと、改めて痛感させられる。

 

西洋文明の複眼に晒される〈未開人〉

 江戸時代、地域ごとにグラデーションはありながらも、混浴文化は広く全国的に行き渡っていたと考えてよいようだ。ただじつは、幕府は混浴を禁止したいと考えていた。幕末にはとくに西洋文明からの厳しい視線も意識していたし、日本の「近代化」には避けて通れない施策のように思われた。でも幕府にはそれを徹底するだけの余力も気力も残っていなかった。

 他方、新・明治政府を取り仕切った人びとは、幕藩体制でいえば下級武士に属する人たちであり、力を失いつつある旧体制との差別化、力のちがいを見せつけるのに格好の政策となったのが混浴禁止令や、町中での裸体禁止令の徹底であった。ここから少しずつ、しかし確実に、現代的な羞恥心を日本人が身につけていくようになる。

 

 ところで笑ってしまったのが、混浴文化をまなざす西欧人たちの態度である。開国以来増えていった外国人入国者の数とともに、日本の公衆浴場は「訪日したのならば必ずチェックしておきたい観光名所のひとつ」になっていた。それは自文化とはまったく異なるエキゾチズムを満足させるとともに、性的な興味をも満たす大きな関心の対象であった。

 西欧の人びとは裸の日本人たちに遠慮のない視線を向けた。裸体を堂々と晒す〈未開の文明〉に対する批判的な「冷たい視線」とともに、裸体を性的対象と見る「熱い視線」を。「野蛮でじつにけしからん」などと言いながら、その裏にあるホンネを隠せずにいたのである*7。新政府の禁止令に加えて、こうした部外者の視線によって、日本人は羞恥心においても「近代化」を成し遂げたといえるのではないだろうか。

 

関連まとめ?

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*1:『裸はいつから恥ずかしくなったか―日本人の羞恥心』pp.94-95

*2:同書p.96

*3:同書p.104

*4:同書p.112

*5:本書によれば、じつは中世のヨーロッパでも似たような状況であり、日本よりひと足先に、視覚優位な性愛の条件が成立したにすぎないという。中野氏は『羞恥の歴史』の著者ジャン=クロード・ボローニュの以下の言葉を紹介している。「羞恥は中世では行為に結びついていたが(裸の肉体が接することによって惹き起こされる淫蕩な行為)、16、17世紀には視覚に依存するようになる」(同書p.112)。

*6:日本近世文化を研究したタイモン・スクリーチは、裸体自体が日常品化される社会では、現代とは比較にならぬほど男女の差があいまいになることを指摘したうえで、「衣服や髪型のジェンダー的コード化がいやが上にも重要にならざるをえなくなった」と分析しているそうだ。

*7:さらに補足しておけば、こうした構図があったことを明らかにしたのもまた西欧人たちの記録・自己批判によるところは大きい。そのことも本書では詳しく紹介されている。

野心的な建築たち――五十嵐太郎『現代建築のパースペクティブ』

 自身が建築家であり建築批評の領域でも活躍する著者とともに、日本国内の現代建築を「眺めて歩く」ことを意図したような一冊。商業施設を中心に東京都内の建築が淡々と紹介される序盤こそ退屈にかんじたが、地方建築、住宅、そしてクルマからみた建築とテーマが展開されるうちに、俄然おもしろくなってきた。

 

現代建築のパースペクティブ  日本のポスト・ポストモダンを見て歩く (光文社新書)

現代建築のパースペクティブ 日本のポスト・ポストモダンを見て歩く (光文社新書)

 

 

 退屈と言ってしまったが、東京の建築や商業施設だから面白くない、という意味ではもちろんない。というのも、この本では紹介される建築の写真がどれもこれもショボイ。ひとつの建築に一枚、モノクロの小さな写真が申し訳程度に添えられただけだったりする。紙面の都合だろうが、ちともったいない。ネットで画像検索しながら読むと、鮮やかなイメージが膨らんで一気に興味がわいてきた。*1

 

 それはともかく、身近なところにある作品から建築の世界のもつ魅力を語ってみせる著者の企てはおおむね成功しているのではないだろうか。現代建築に限らず現代アート等でもおなじことと思うけど、一見奇抜なカタチや意外性のある素材が採用されるのには、基本的に何らかの意図が込められている。そうした「意味」(あるいは文脈)の摂取をサポートしながら、簡潔な見どころを提示する試みとして、本書はすぐれたガイドブックになっていると思う。「意味」を獲得した視線で改めて周囲を眺めかえせば、目の前の風景が一変しているのがわかる。

 

時代とともに変わる建築観

 本書のなかでは、自動車と建築の関係を考察する第4章にいちばん興味をもった。建築や都市計画を考えるときには、人が歩く街路だとか人が集まる広場が大事な要素になってくるのだけど、そのとき自動車というのは長らく邪魔な存在と考えられてきたという。人間の身近な身体感覚とはちがう暴力的な存在、人間同士の交流を阻害する異物としてのクルマ、という考え方だ。自動車が庶民の生活のなかに登場してしばらくは、このような発想が支配的だった。

 

 ところが自動車が不可欠な時代になり、そうした条件で生きることが当たり前の世代が登場すると、「自動車=悪」という発想がそもそもなかったりする。すると彼らは、先行世代とはちがったアプローチを試み始める。生活に根差したクルマを、等身大の感覚でもってポジティブな存在として読み替えるのだ。

 

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画像引用:八代のショッピングセンター計画案 | みかんぐみウェブサイト 

 

 たとえば、みかんぐみのように、ショッピングセンターの駐車場と公園を統合させるような提案*2がその一例だろう。従来、駐車場は景観を破壊するものとみなされ忌避されてきた。だが、クルマを前提にした地域社会においては、隠すよりもむしろ、積極的に生活空間・交流の場として取り込んでしまうべきだろうというスタンスである。

 団地やコンビニにたいしても同じような価値転倒がおこっていて、社会の均質化・画一化の象徴というネガティブな視線から、「同じもの」のなかの微細な差異に注目し、評価するような価値観が登場しているそうだ。

 

首都高に注目する

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画像引用:MJアーカイブス - 清水草一オフィシャルサイト 

 

 それにちかい観点として、「首都高速ガイドブック」という試みにも興味をひかれる。高速道路もまた景観を乱す無機的な存在として否定的な評価がなされてきた。しかしそれとは異なる見方だってあるうる。

 東京で一番大きい構築物は何か? それは東京タワーでも新都庁舎でもなく、首都高速道路である、と話すのはアトリエ・ワンを主催する塚本由晴氏。移動の手段としての意義とかではなく、首都高というメガストラクチャーそのものを建築的観点から観察する研究に取り組んでいる。建築の常識では考えられないようなダイナミックな空間を、首都高のさまざまな場所で発見できるのだそうだ。その成果は以下にまとまっているそうなので、ぜひいずれ読んでみたい。

 

10+1〈No.16〉

10+1〈No.16〉

 

 

 同じ“首都高と建築”でも、「首都高から見える建築」に注目してみるとまたちがったものが見えてくる。著者の五十嵐氏は、首都高を走ることじたいを目的とした首都高速バスツアーを企画したことがあるらしい。なにを見るのかといえば、車窓から建築を見る。戦後以降に蓄積されたさまざまな建築物が首都・東京には存在し、そのうちのいくつかは首都高の車窓からも見つけることができる。

 

 いうまでもなく、高速道路は目的地までより早く到着するための手段である。だから渋滞はイライラする。でも建築を眺める目的で走ってみたらどうだろう? むしろ、ゆっくりじっくり観察することができるのではないか。しかも地上からとは違った視点、さらには都市の風景のつながり方も体感できる、東京の情報を圧縮的に摂取できる体験。――五十嵐氏は言う、「建築を見ていれば、渋滞しても楽しい」と。  

 以下の記事は、そんな観点からの紹介作品を参考にまとめてみたものである。首都高からの見え方を意識している建築は思いのほか多いらしく、走行中のクルマからでもはっきりと確認できるダイナミックな構造の作品が中心になっている。眺めるだけで楽しい。ご興味があれば、こちらもぜひご一読を。


【東京】渋滞はむしろチャンス!? 首都高の車窓からのぞむ現代建築の名作14選 - トラベルブック

 

欲望を喚起する建築 

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画像引用:金沢21世紀美術館 - Wikipedia 

 

 それにしても『現代建築のパースペクティブ』にはいろいろな作品が登場する。なかでも、金沢21世紀美術館はぜひ見に行かなくちゃという気持ちにさせられた。外観はこのうえなく「円」ってかんじなのに、館内に入ると「円」の印象、存在感を意識的に消している、といった話とか。自宅は一生賃貸でいいかなと思ってるんだけど、建築家による個人宅の設計にもすごく興味を持っちゃったよ。

*1:まあこの点は、いまや画像検索ができるので、実際にはさほど問題がないといえるかもしれない。本書が書かれた10年前では難しかったかもしれないが、いまなら「ネットで画像検索してちょ」とアウトソーシングを前提してしまうことも可能で、それで事足りてしまう部分も多そう。

*2:残念ながら、この計画は実現されなかったそうだが。